「うわばみ会 定款」の写真 公表される
2001年1月31日



発見の経緯

 2001年1月31日、我々取材陣の前で、笠井氏はうやうやしく茶色の事務 封筒を取りだすと、白い手袋をはめ、封筒の中から2枚の紙を取り出した。その まばゆいほどの荘厳さに、「おぉ。」と声を漏らす者や逆に息を飲む者さまざま だった。見るだけ、撮影するだけの約束だったが、中には、実物に手を触れよう として、同氏から戒められる者もいた。目の前でまさに歴史の扉が大きく開かれ た瞬間だった。

 急激な環境の変化に考慮し、2枚の紙は、時間は5分間だけ、フラッシュやラ イトの使用禁止という条件で、公開された。(注=写真の映りが悪いのはこうし た状況下での撮影だったからである。)今回は、この「歴史」に関してリポート したい。

 その発見は偶然だった。
 去る2000年12月10日、練馬区中村南の笠井氏宅では4日後の引越しを 控え、邸内の片付け等があわただしく行われていた。主である笠井明氏(41) が湯殿付近の物置を整理していたところ、電電公社関東電気通信局と書かれた2 号サイズの事務用茶封筒の中から、それは発見された。

 右下欄外に「CO−OP」のブランド表示のあるB5版のレポート用紙2枚に、 パイロットデスクペン(万年筆)を使い黒インクで書かれた「うわばみ会 定款」 と題された古文書である。専門家の鑑定によると、古文書は81年末から翌82年 3月までの間に書かれたものと推測される。マニアの間では、「幻」とまで言われ、 関係者の記憶の中にのみ留められていたものだ。

 古文書は、その丁寧な字の書き手にふさわしく、封筒の中で折り曲げられること なく、大切に保管されていた。今回の大発見について、一部では、「捏造」を疑う 声もあったが、第一発見者である笠井氏は「いやぁ。日頃の積み重ねじゃないで しょうか。」と、いつもの謙虚かつ毅然とした態度で、大発見の偉業を語った。

 事実、同氏は日頃から、勤め先のデスクの上におびただしい量の書類を積み重ね ている。その乱雑振りに周囲からは「ゴミの山の中で仕事している」と言われてい るが、「ゴミの山」の中でも、必要な資料を、すっと抜き出すことができることから、 彼は「神の手」とも言われていた。その一方で、偶然、発見することもあった。昨年 末、同氏は「山」の中から、村上ゆかりさんから99年1月末頃にファクス受信した 大場君連絡先を記した紙を発見している。実はこの情報を基に大場氏と笠井氏の交流 が復活し、当初は両氏が細々と関西うわばみ会の会合を数度重ねられた。その後、年 賀状その他の情報をかき集めたりするなどして、連絡網が築かれ始め、99年7月に 関西での初総会が開かれた。その後、大石氏の大阪出張を契機とした忘年会、有志に よる懇親ゴルフ等数々の催しが、綿密に執り行われ、今日の関西うわばみ会の隆盛に つながっている。そのきっかけとなった貴重な文書であった。(種々の意味で「積み 重ね」である。)しかしながら、同氏はうかつにもその紙を処分してしまい、今は見 ることはできない。

 こうした反省もあり、同氏は定款をパソコンに打ち込み、関係者に配布した。し かし、一部の会員からは「実物を見せろ」との要求が強く、先日の新世紀会の会合 では、脅迫まがいの要求を受けたもよう。彼は身の危険が家族に及ぶことを恐れ、 今回、報道陣に実物を公開することとした。これが、公開の経緯だ。

 これでも納得しない会員が出ることを同氏は恐れている。来る2月7日には久保君 を囲む会が大阪・梅田周辺で開催される予定であり、その会の安全と引き換えに、自 分自身が「直接見る」ことを要求してくる恐れがある。とは言え、前回の要求(脅迫) が行われた時点では、「デジカメで撮って、メールかなんかで送りゃぁええやないか」 とも言われており、今回の公開はこの要求に沿った形であり、警備当局はこの点を重 視しつつも、慎重かつ綿密な検討を行った結果、同氏の安全は確保されると判断した もよう。

 今後、焦点は幻となっている「卒業文集」に移行するものと思われている。関係者 の祈りにも似た熱心な呼びかけにもかかわらず、文集は表紙と一部会員の書きかけの 原稿しか発見されていない。笠井氏は今後も要求が強まるようなら、当該会員に対し、 「だったら、お前は卒業文集を探し出せよ」と言いたいと、日頃の温厚な態度に似合 わない、強気なところを覗かせている。

定款 画像

定款

定款

定款


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