1997年7月から、マレーシア、サラワク州ビンツル市に赴任しました。
その中で感じた事などつれづれに、、、
-----------------------------------------------------------------------
w/ クチン (遊び)
11/ 8 MH2301 11:10 Bintulu => Kuching
ホテル Crowne Plaza Riverside Kuching Tel: +60-82-247777
(旧: Riverside Majesty)
11/ 9 MH2312 16:45 Kuching => Bintulu
-----------------------------------------------------------------------
仕事でクアラルンプール (MINT)
11/10 MH2315 15:45 Bintulu => Kuching
MH2523 17:30 Kuching => KL
11/10-20 の KL での宿泊先
Metro Inn Tel: +60-3-8375555
11/21 MH2564 13:20 KL => Kuching
MH2312 17:15 Kuching => Bintulu
-----------------------------------------------------------------------
12/25 の晩 11:00 ごろだったようですが、ビンツル日本人会の
あとでしたので、わたしはすっかり酔っ払って眠っておりました。
ガスではなくパラフィンか何かのタンク(ナフサとケロシンだったようです)が
2つぐらいぶっ飛んで、轟々と黒煙をまきあげてました。
海岸沿いに街の方まで、煙は立ち上ってました。
12人怪我人が出たとか、10人死んだとか、40人取り残されているとか、
いろいろと情報が交錯していてはっきりしたことは分かりませんが、
近くにいる軍隊を含め怪我人がでているのは確かなようです。
(結局、12人の怪我人というのが正しい情報だったようです。)
私たちの工場での被害は、工場内の会議室や電気室などの天井が
一部剥がれ落ちたのと工場のシャッターが二個所外れたとか、
寮や Labo などのドアがほぽ全滅、天井が一部剥がれた程度。
さらに 2Km ぐらいはなれた社宅のガラスやサッシなども一部
壊れたようです。
それよりも、クリスマス休暇明けのスタートアップデーでしたが、
朝の時点では、まだ次の爆発が起こる可能性も捨て切れず、
スタートアップは延期になりました。
(結局、徹底的な整備をして、翌朝から再度スタートアップしました。)
近くにある発電所は、非常用のディーゼル発電機に切り替えて
回したとのことで、今のところ電力は足りているようです。
が、燃料の量などを考えると、ほんとに安定して、本来の発電に
まで繋いで、いつ元に戻せるのかは、よくわかりません。
工場の前のカンポン(バラックの民家)などからは、大量の人間が
避難してました。夜中の爆発の後、川の向こうまで避難して一睡も
眠れなかったというイバン族の皆さんもいたようです。
メインオフィースの従業員の親から「そんな危険な場所にいずに
とっとと帰ってこい。家族ごと Sibu まで避難する。」なんて
電話もかかってきていたようです。
我々の感覚からすると、めちゃめちゃ大袈裟な反応です。
なかなか壮観な煙でしたが、12/26 の 16:30 ごろに、突然鎮火
しました。多分もう燃えるものがなくなったんでしょう。
とんだクリスマスプレゼントでしたが、人の怪我などは工場では
でていません。よかったぁ。
で、このニュースは、日本では一切報道されていなかったようですね。
日本人の死人でも出れば、ニュースになったかも。(^^;
1997年 7月〜 8月の分の奮闘日記
1998年 1月分からへ続く
Back to Malaysia Page
Back to Homepage